旧跡探訪
(旧六)
菩薩
(
一)
(地蔵
)
台座部分の拡大写真
上の台座の正面
上の台座の右側面
d'dy
(j1a)
台座の正面は道標になっています。
右から 右子権現 ? 北一之宮道
左(エはヒ)南湖( ?村)と書かれているようです。
最後ははっきりしませんが、村の様です。
子権現とは茅ケ崎市萩園の常顕寺の子(ね)ノ権現
の事でしょう。一之宮は高座郡寒川町、南湖は茅ケ崎
市の南湖(なんご)を指しています。
(j1b)
年号が刻まれていて
文久二戌年十一月二十一日再建
となっています。
上の台座の左側面
下の台座の右側面
(j1c)
相高座郡西久保村
念佛講中
相(きょう)とは相模の国のことです
。
下の台座
(j1d)
下の台座の右の側面には苗字のない人達の名前が
見られます。
この右側面は、この季節アジサイが茂ってよく見えません。
)
下の台座の正面には苗字の付いた名前が刻まれています。
村の有力者の人達でしょうか。
明朝体は?です。(天四郎さんの天)
(j1e)
下の台座の左側面にも苗字のない人達の名前が
見られます。
明朝体は?です。(利兵衛さんの利)
(j1f)
お読みになれるでしょうか?。これらの写真では完全には読みきれないと思います。名前他は原画の
拡大写真から読み取ったものです。
文久二年に再建したと書いて有りますが、文久ニ年は1862年で、それより8年前の1854年(安政元年)に
安政東海地震、翌年には安政江戸地震がありました。恐らくお地蔵さんは台座から転げ落ちてしまった
のでしょう。安政年間はそれ以外にもいろいろ災害の多い時代で、修復まで手が回らなかったに違いあり
ません。台座のひび割れや、お体の手当ての跡は関東大震災の時の傷みでしょうか。