旧跡探訪
    
(旧十五のa)   境内の仏群(二) (甘沼八幡大神)  拡大写真

二十三夜塔(三)



 二十三夜塔はそんなに多くは見られません。明治37年1月の日付で
 かなり新しいものです。これは何を意味するかと言えば、二十三夜講が
 この頃までは昔の様に営まれていたと言う事でしょう。
  気の合った仲間と月の昇るのを待ちながらの宴会なら、今でもやって
 みたい気もいたします  

道祖神(六)


 

向かって右側面
      塔がひび割れてしまい、最近、氏子の方が針金で縛ってくれた様です。
      安政三年(1856年)辰正月吉日とはっきり読み取れます 

道祖神(七)

 



   こちらの像は前(六)の像の一年前の安政二年乙卯(きのとう)正月吉日の年号が刻まれています。
   地震が多かった安政年間、この年の十月(1855年.11月)にも、関東南部を震源とする安政の
   大地震が発生しています。

庚 申 塔 (十)  (神奈川県指定有形民族文化財)






 
  言われてみれば、何とか承応(じょうおう)
  三年と読む事ができます。


  
  ここに書かれている平成18年2月14日に
  神奈川県の指定になっています        
 八幡神社の庚申塔
       平成一八年二月十四日
       神奈川県指定有形民族文化財
 庚申塔は庚申信仰に基づいて江戸時代に
 盛んに造られるようになったもので、人の延
 命招福を願ったものである。
 この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現
 期のもので承応三年(一六五四)の
 年号が見える。
 基部には造立者十人の名が刻まれている。
 四臂(うで)で二猿を従えるこの形式の塔は
 これまで七基が見つかっており、いずれも
 相模川下流域(茅ヶ崎三、平塚二、寒川一、
 藤沢一)に分布している。初期の青面金剛像
 の庚申塔として重要なものである。
          茅ヶ崎市教育委員会

青面→しょうめん、四臂→よんぴ



  台座の部分に造立者十人の名が刻まれている
  のとあるのですが、拡大して何文字かは読めても
  名として読みきれません。(あるいは11人〜12人
  の名かもしれません)